「相手による」ほとんどの人がそう答える。「彼女との約束だったら、一時間は待つ。友だちだったら、だいたい二十分だね」「こっちがものを頼む場合は、一時間は待つよ。しかし、頼まれる場合は、十分も待たないね」「他に用がなければ長く待つし、用があれば待たない」いずれももっともなことばである。「好きな彼女だったら待つし、そう好きでもない相手なら待たない」という人もいれば、逆に、「好きな彼女なら、待たない。どうでもいい待たせた分だけハンデがあると思え相手だったら、とくに苛立つこともないからのんびりと待つ」と答える人もいる。待つ側にも、いろんな条件があり、個性があり、またそのときそのときの気分がある。いずれにしても、わざと時間に遅れて行くような真似は、結局はそれは自分を軽んじることになるのであって、やめたほうがいい。つねにゆとりのなかで行動しよう。道を急いではろくなことはない。六時までに行くというときに、六時前に着いても、一向にさしっかえないのである。にされない男は何を基準に女を選ぶか美人なんか問題にしない恋愛は選択である。たとえ計算による選択でなくても、彼あるいは彼女は、出会い系 アプリ で多くの異性のなかから、彼女あるいは彼を、無意識のうちに選んでいるのだ。問題は、その選択の基準である。これが、人によってさまざまなのである。そうじゃなければ、ひとりの人聞に多くの異性のプロポーズが集中することになってしまい、世の中は平和でなくなる。いったい人は、何を基準にして恋人を選ぶのであろうか?好きになるのであろうか?ぼくも、いろんな男たちからタテマエとしての選択の基準を聞いている。「まず、十人並以上の美人であること」多くの若者はそれを理想としている。十人並みとはどういうことか?一般にこのことばは「普通平均」と理解されているが、じつはそうでない。十人並んで一番の美人、という意味である。相当な美人のことを指すのである。多くの背年が十人並の美人を求めているが、十人並は十人に一人しかいない。それでは、他の九人はあぶれてしまう。ところが世のなかは良くしたもので、他の九人も適当なところにおさまる。これは、多くの青年が美人を求めるのはあくまでも理想であって、じっさいには現実と妥協するからである。もうひとつ、口で言っているほどに美人に価値を置いていないからである。また、情が移るからであり、つきあっている彼女の内面的な良さを発見してそこに惚れるからである。

どんな美人の細君を持っていても、毎日顔を合わせていれば感動しなくなる。美人の妻を持つことは、虚栄心は満足させられるのであろうし、その人の職業によってはそれなりにプラスになるであろうが、普通の場合、実質的に生活内容の充実に役立つとは思えない。むしろ、一般に美人だと言われている女には、精神的にいろいろ欠点があることが多いのである。第一に、彼女は自分の美貌を鼻にかける習慣を身につけてしまいやすい。高慢である。冷たい。人間的なあたたかさに欠ける。自分の長所が外面的な点にあるので、人生上のいろんな問題に関しても、外面的なことに重点を置くようになる。へりくだることを知らないので、みずから努力しない。美人が全部そのような欠点を持っているとはかぎらない。美人であるというハンディを克服してりつばな人間性を保有している女性も多い。しかし、このような女性はやはり比率では少数派である。多くの青年たちはそれを知っているので、ロで言っているほどには美人であることを恋愛の条件にしない。したがって、タレントや女優、歌手など容貌を職業に利用している人を除くと、整形手術などを受けるのは、ナγセン九である。若い女性は、このことをよく心得ておくべきであろう。整形美人など、どことなくアンバランスでかえって奇妙なものである。それを化粧でごまかしているのだが、そんなインチキは長つづきしない。ぼくの知っているある男は、彼女が整形美人であることを承知で結婚したが、毎日顔を合わせているうちに整形されたその顔がいやになり、グロテスクに見えてきて、三年で離婚してしまった。人間というものは、顔と心情とは奇妙にマッチしているものだ。それを無理に機械的にねじ曲げると、かえってへんなものになってしまう。人に美しく思われたいのは、これは人情であろう。しかし、ここで目的と手段を混同してはならない。美しく恩われたいのは、愛されたいがためである。目的はそこにある。目的を離れて美しく見せてもなんのプラスにもならない。内面からにじみ出る顔の良さこそたいせつなのであって、メスでひん曲げたり外から塗りたくったりしてもしようのないものである。もちろん、一時的なつきあいなら、けつこうそれでも通用する。夜の世界に生きる女性たちの化粧が厚いのは、そのためである。彼女たちも、夫や恋人の前では、あんな商売用の厚化粧はしない。相手に対して一時的なつきあいではなく永続的なつきあいを求めている普通の娘がホステスや芸者をまねてあくどい化粧をするのは、まったくバカげた話なのだ。

そんな娘に対して男たちは、「ははん、こういう女は、一時の戯れの火遊びでつきあってもよいというわけだ」必然的にそう思う。つまり、自分を廉やすく売出していることになるのである。働きのある女より可愛い女容貌のつぎに多くの青年が、「生活力のある女と結婚したい」そう言っている。何も、女のヒそになって暮らしたいからではない。自分も働く、妻も働く、そうすることによって収入はひとりで働くよりも二倍になる。あるいは二倍に近くなったり二倍以上になったりする。そうなれば当然、毎日の生活はよりハイレベルになる。マイホームも早く建てることが出来る。まことに現代的で合理的な考え方である。しかし、このことの袈を返せば、彼はそれだけ自分の将来に大きな抱負と自信を持っていないということになる。逆に女のほうから、はたしてそういう小じんまりとした男でいいか、考えてしかるべきであろう。しかしこれも男のひとつのタテマエであって、どこまで本音が入っているか、そめ男に面接してみなければわからない。多くの男は、やはり心の底では、自分が妻子を全部背負っているはずで、妻の収入を当てにしているようなことばを吐くのは、生活.働きのある葉.より・可愛い喪‘が男の本音である設計の上での用心深きのせいなのだ。それだけ世の中がせちがらくなっているからでもあろう。やはりなんといっても、「働きのある棄」よりも、「可愛い妻」のほうがほんとうは欲しいのである。経済力のある女が男と結婚しても別れるケスが多い。これはふたつの理由がある。経済力があるので、彼女は簡単に離婚することができる。男も安心して棄をおっぽり出すことができる。これはだれでもわかっている理由である。もうひとつが重要なのだ。や気」がさしてしまうのである。主として夫の心理の問題だが、妻の働きを見せつけられているうちに、なんとなく「いあくまでも棄は、夫にとっては女でなければならない。その女としての部分が小さくなって、共同生活者あるいはライバルとしての部分が大きくなる。妻に女を感じるよりも、圧迫感をおぼえる。経済力があるがために破れるというケスは、最近とくに増加している。これはこういう男の心理を重視しなかったがための不幸である。夫が妻を、「か弱い女だ。おれがいたわり保護して行かねばならない」そう思うことは、男の仕事の上での意欲をかきたてさせると同時に、妻に対する性的な愛情も増大させる結果になるのである。

男にはそういう本能があるのである。近ごろの青年はその点かなり女性的になっている傾向があるようだが、それでもまだその本能は根強く残っている。であるから、いざとなったら夫を助けて収入の途を講じることができる技術や心がまえを持っていることはたいせつだが、必要以上にそれを発揮するのは考えものであるう。人生は、目先きの利益にとらわれずに、もっと複雑な人間心理を考慮しながら長期的な展望の下に生きるべきであるう。第三に男が望んでいるのは、「女もやさしくあって欲しい」ことだそうである。そりゃ、冷たい女よりもやさしい女が望ましいのは当然である。しかし、このことばにも袈があって、丸呑みにしてはいけない。女にやさしさを求める男の心理のなかには、だらしなくも男のくせに、女に甘えたいという弱さが秘められている。当然男は、みずからのその弱さに反接しているはずである。「やさしくなんかされてたまるか」そういう心理があるのだ。だから女はときとして、男に冷たくして、「わたしはあなたの強さを信頼している」ということを示さなければならない。頼られることを望んでいない男は男ではないのである。頭のいい女を嫌う男の本音男が求める女の顕「棄を喪らば才長けて」という歌がある。才長けてとは、ただ「あたまが良い」ということにとどまらず、「教養がある」ことをも含む。しかし、男性が自分の恋人にどの程度のあたまの良さや教養の高さを望んでいるか、これはむずかしい問題である。ある男たちは、「あたまのいい女は嫌いだな。理屈ばかりこねるし、自分のあたまの良さをひけらかす」と言っている。まだ大学卒業という肩書きに一応の価値があったころ、「大学出の女はいやだね、褒とするのは女学校出がいい」多くの青年はそう考えていた。そして事実、大学卒の女は婚期を逸することが多かった。多くの男は、自分の棄が自分よりあたまが良いことを望んでいない。かといって、おろかな褒を望んでいるのではない。「すこしばかりおろかな女のほうが可愛い」と言う。しかしこれは本音ではない。たしかに「おろかな妻」のそのおろかさ幼児性は、ときとして男に「可愛らしき」を感じさせることはある。しかしそれはあくまでも「ときとして」であって、日常生活の場でつねにおろかさによる失敗をくり返されていたのでは、共同生活者としてはたまったものではない。教養についても同様である。つねに妻の教養の高さを思い知らされるのは、一般の男にとっては、やはり愉快なことではない。

つねに無教養をさらけ出されていては、やはりおもしろくはない。衰のあたまの良さも教義も、ひとりの男を基準にしてその男の理解と共感の届く範囲でなければならない。ということは、女から見て、あまりにも不釣合いな男を選ぶことは、ひとつの不幸のはじまりだということができる。ある女は、Aにふさわしくてもにふさわしくないのである。とは言え、これも男の性格女の性格によって千差万別である。ある名門大学出の才女が、大方の予想を裏切って小学校しか出ていない筋肉労働者と結婚した。彼女は相手の男のたくましさを選んだのである。彼女は男の男としてのたくましさこそ男の価値の第一条件だという自分の生活信条にしたがったわけだ。そして事実、彼女はしばらくは幸福であった。陶酔の夜がつづいた。けれども五年後、すでにふたりの問にこどもが生まれているのにもかかわらず、ふたりは離婚した。性生活だけが結婚生活のすべてではなく、やはり彼女には夫と自分との物の考え方感じ方のへだたりが耐えられなくなったのである。かと思えば、優秀な弁護士が、可愛らしきだけが取柄の女と結婚してなごやかな家庭を築いている。男にニの足を踏ませたものぼくが思うに、あたまの良さや教義について、夫が妻を尊敬することは、かならずしも結婚生活の必要条件ではない。これは女性蔑視ではない。むしろ、女性を尊んで言うことばなのだ。あたまの良さとか教義などよりもはるかに重要なのはその人間性であり、それによって夫を感動させることがもっともたいせつなのだ。けれども、少なくとも現在の日本の社会では、棄が夫に噂敬の念をおぼえていなければ、よき夫婦生活は成立しない。男のどのような点に尊敬の念を抱くか、それはその女の個性による。恋愛の初期においては、男も女も冷静さを欠くものだが、それでも、「この人のどこに尊敬すべき点があるのだろうか:::」と言うことを考えるべきであろう。自分にふさわしくない相手を選ぶことは、自分にとっても相手にとっても不幸である。ある男が克合いをした。相手の娘さんは、いわゆる才色兼備のすばらしい女であった。その男は、見合いの後の交際に踏み出さなかった。ことわった。その理由は、「おれにはとても歯がたたない」とその男は表現した。「ああいう才女と結婚したら、おれは一生あたまが上がらないだろう。向こうだって年中おれにいらいらすることだろう。おたがいに不幸なんだ」そして二年後、その男は才色ともに平凡な娘さんと結婚した。

現在ニ児の親であり、平穏無事な生活を営んでいる。。並はずれた才女が幸せをつかむとは限らないかと思えば、「おれは優秀な子の親にならなければならない。そのためには、優秀な頭脳を持つ女と結婚しなければならない」その信条にしたがって結婚した男もいる。そしてその望み通りに生まれた子は学業成績抜群であるが、かわいそうにその男は、給料を家に運んでくる働き蜂的存在でしかなく、家に帰ってもおもしろくないので、毎晩呑んではくだを巻いている。家の中に自分のいる場所がないのである。昨今、このような亭主族が増えているが、これは女がえらくなり過ぎたための不幸であるう。熱烈な恋愛の末に結婚した男女でも、三年経ち五年経つとさまざまな問題が生じ、男にも女にも相手への不満が浮かび上がる。「結婚前、あれだけ長く深くつきあったのだから、何もかも相手を知り尽していたはずではないか・.じつはそうではないのである。いかに長く深い交際であろうと、男も女も、生活をともい、当然、相手の正体はわからない。にしていたわけではない。それぞれちがった生活を営みながらデlトをしていたに過ぎな結婚してから、「こんな一面があったのか?」「こんな女(男)だったのか/」かならずあたらしい発見をする。それが良い発見ならば、それに越したことはない。しかし多くの場合、件数から言えば、悪い発見のほうが圧倒的に多いのである。あきらめるか、やり直すかしたがって、恋愛の初期において重要なことは、情に溺れてしまわず、自分をごまかさずに、相手及び相手と自分との関係をクールにみつめるだけの批判精神を持つことであろ「多少のことには目をつぶって」という心理になりがちなのが、恋愛である。気をつけねばならない。何しろ、男も女も、初期の交際時代には、できるだけ自分に高い評価が与えられるように努力する。デートのときに念入りに化粧したりあれこれと服を選んだりするのもその一例だが、教o養の点についても同様である。「今から考えたら」と、ある中年の男が言った。「恋愛時代、女房は嘘ばかり雷っておった。しかしまあ、これはこっちも同様だから、しょうがない。恋愛とは、キツネとタヌキの化かし合い的な要素があるんだな」結婚してだんだん馬脚があらわれる。「ま、いまさらしょうがないさ」夫も妻も、そこでしだいにあきらめに似た心理になる。おそらく、世の九パーセントの夫や棄は、大なり小なりそういう一面を内包しているにちがいない。